宇佐美りん 著、河出書房新社、2020.西川 真由(文学部 歴史学科 3年)『推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。』みんなが送る「当たり前」の生活を上手く送れない主人公・あかりは、推し活によって頑張る意味や元気をもらって何とか生きている。彼女にとって推しは「背骨」なのだ。生きているだけで人より疲れてしまう彼女がピンと立つための、大切な「背骨」。小説は、そんな推しがファンを殴ったと炎上したところから始まる。作者は21歳、私と同い年だ。この作品は、「推し」という恋人とも友人とも親とも違う、違う世界にいるからこそ安心して全身全霊を掛けられる存在と、何ともなしに「生きづらい」という感覚を、多彩な表現と豊かな比喩表現によって見事に描いている。それは読んでいると主人公に共鳴し、息が苦しくなるほどだ。この小説を母や祖母に読んでもらったところ、「面白いけれど理解ができない」と一蹴された。母は小説内で多用されるSNSを用いた表現や、ネットスラングの「おじさん構文」などの単語が分からず、本文に入り込めない。と言った。祖母はそもそも「推し」という存在に依存する主人公が、ただ生きることをサボっているだけに見え苛立つ、と主人公の人格そのものが理解できない。と言った。私は母や祖母と会話した時に生まれる、ちょっとした溝のようなものの正体はこれか。と気が付いた。私にも「推し」がいる。私の推しは舞台俳優で、舞台があれば東京や名古屋、四国まで足を延ばす。ドラマを録画し、発売されるDVDを買う。SNSでは彼の名前を付けて好意的な文章を発信する。普段寝坊した…なんて理由で大学を休んでも、夜行バスで東京を往復した日の翌日、一限の授業が入っている日は「推しを休む理由にしたくない」と浮腫んだ足を引きずり、眠い目をこすって大学に行った。「推し活」というのは、推しの一挙一動が、発した言葉が、私の人生に大きな影響を与えても、私のそれは彼の人生を変えることはない。というある種の無責任さに支えられていると思う。こちらが勝手に理想を押し付け、推しの行動を分析しても、否定も肯定もされない。同時に、推しは「私」という存在を否定も肯定もしないのだ。主人公・あかりも人並みの生活を送れない中で、そんな彼女を「あかり」として個別に識別されないからこそ推し活に励んだし、推しを背骨に息ができたんだと私は思う。無責任だからこそ、どこまでも真剣に、純粋に応援できる。そういう感情や思いを、母や祖母は理解できない。でも「親」だからこそ、生きることさえ儘ならない主人公の親の立場を理解し、彼女に苛立ったのだ。あなたには推しがいますか?純粋に、無責任に、拠り所となる推しが。推しがいなければ息ができない。という感情を理解しろとは思わないし、私もそこまで理解はできない。欠陥があるのはどう考えても「あかり」だ。ただ理解はしなくてもいい、欠陥がある、生きているだけで息切れしてしまう人間がいることを、この小説を通して知ってもらえれば幸いです。92優秀賞『推し、燃ゆ』
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