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渡辺一夫 著、講談社、1973.78笹原 有貴(文学部 日本語日本文学科 2年)この本は、名前こそ『ヒューマニズム考』という仰々しいタイトルがつけられていますが、決して難解な思想が語られるわけでも、複雑な社会理論が語られるわけでもありません。著者は淡々と、エラスムスやラブレー、モンテーニュといった中世ヨーロッパの人々の、姿勢や思想を述べるばかりです。しかし著者の取り上げる人々は、時として迫害されながらも、宗教改革や悲惨な宗教戦争の際に「それがキリストとなんの関係があるのか?」と問い続けたヒューマニストであるという点で、誰一人相違がありません。彼らは新教と旧教の間に挟まれ、厳しい弾圧を受けながらも「この戦争が、そしてこの様な異教徒への弾圧が、一体キリストとなんの関係があると言うのか?」という問いかけをやめませんでした。本来、人々の暮らしをよくする為のものであった宗教を巡って、自説を固持して口論を始め、果ては殴り合いを始めては、本末転倒で、滑稽ですらあります。しかし人間というものは、往々にして、この様な間違えに陥りやすいものです。そして、その様な間違えに陥ってしまった時「その言い争いが、殴り合いが、キリストと、更に言えば人間の暮らしをよくする事と、一体何の関係があるのか?」と問いかける姿勢こそが、ヒューマニズムそのものだと著者は述べるのです。現在においても、政治にせよ、フェミニズムの問題にせよ、はたまた表現の自由を巡る対立にせよ、それに対する各々の意見は、時として過激で、狂信的で、本末転倒なものになりがちです。故に、議論や運動を、本末転倒なものとしないためにも、かつてのヒューマニストたちの問いかけを、我々の直面する現在の言葉に置き換え「その議論が政治と、人間の暮らしをよくする事と、何の関係があるのか?」と問いかける、ヒューマニズムの姿勢が重要に思えてなりません。それは一見、生ぬるい姿勢と見られ、時として疎外され、迫害される事すらあるやもしれません。事実ラブレーは、そのヒューマニストたる言動を追求され「例え火炙りに処されても、とは申さぬが…」などと語気を弱めなければなりませんでした。しかしそれでも諦める事なく、しつこく、頑なにこの問いかけを行わなければならないのです。人類は、過去を忘れ、幾度も同じ過ちを繰り返す存在ですから、それ故にこのヒューマニズムの姿勢だけは、容易に捨ててはならぬものと思います。ですから私はこの本を、皆様に強くお薦めいたします。かといって、例え火炙りに処されても、とは申しませんが。優秀賞『ヒューマニズム考:人間であること』

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