アウグスト・クビツェク 著;橘正樹 訳、三交社、2005.特別賞『アドルフ・ヒトラーの青春:親友クビツェクの回想と証言』55松尾 大地(文学部 日本語日本文学科 1年)2015年10月に、ニューヨーク・タイムズ・マガジンが読者に対してこのようなアンケートを実施した。「もし、過去に戻ってまだ赤ん坊のヒトラーを殺すことが出来るとしたら、あなたは殺すだろうか?」そして、実に42%もの読者が、「殺す」と答えたのである。ここで私は問いたい。みなさんは、次のような青年を殺すべきだと思われるだろうか? その青年は、芸術を愛好する夢想家で、社会的不正を許さず、怒りっぽいが情に厚く、礼儀を重んずる。もちろん、このような青年を殺すべきだと断罪する者などいるはずがない。さて、この青年とは誰なのか。そう、彼こそは「アドルフ・ヒトラー」なのである。正確に言えば、彼の青年時代の無二の親友によって描かれた、「青年アドルフ」である。本書は、ヒトラーの「青春の友」であったアウグスト・クビツェクによって書かれた回想録である。クビツェクは、家具屋を営む家に生まれた一人息子。家業を手伝って手に入れたなけなしの小遣いでオペラを観に行くことだけが楽しみだった。そして彼、アドルフ・ヒトラーとも、歌劇場で出会った。二人はオペラという共通の趣味のおかげで、すぐに意気投合。それからは、共にオペラを観たり、散歩をしたり、夢を語り合ったり、ときには口論したりと、麗しい友情を育んでいく。ヒトラーは画家を、クビツェクは指揮者を目指していた。そしてあるとき、家業を継ぐために音楽を断念せねばならないと言うクビツェクのために、ヒトラーはクビツェクの両親を説得し、彼と共にウィーンへ行くことを認めさせる。二人はウィーンで共同生活を始め、夢に向かってひた走った。しかし、クビツェクが一つまた一つと駒を進める一方で、ヒトラーは一向に芽が出ず、鬱屈していく。そして、ある日、彼はクビツェクのもとから忽然と姿を消した—後年、クビツェクが再びヒトラーに会ったとき、彼はすでにドイツ首相となっていたのだった。戦後、クビツェクは何度も同じ質問を受けた。「なぜ再会したときあなたはヒトラーを殺さなかったのですか?」そして、彼はいつもこう答えていたそうである「なぜなら、彼は友人だったから」さあ、もう一度はじめの問いに戻ろう。過去に戻ってまだ赤ん坊のヒトラーを殺せば、世界は「総統ヒトラー」の手から救われるだろう。しかし、それは同時に、ある人物から生涯最良の友を奪うことにもなるのだということを忘れてはいけない。それでもあなたは、彼を殺すだろうか? 私は時々、ヒトラーとクビツェクの友情に思いを馳せる。そして考えずにはいられない。人間の運命の不可解さと、「悪の凡庸さ」さとについて。
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