my_favorite_book_1-10
50/106

48図書館長  安藤 徹『無名草子』という、いまから800年ほど前に書かれた物語があります。物語の冒頭に登場するのは、100歳を超える老尼です。老尼は仏に供える花を摘むために東山に出かけ、偶然、ある荒れ果てた邸に住まう女性たちと出会います。そして、彼女たちは老尼を聴き手にいろいろなことを語り合うことになります。その冒頭で話題になるのが、「この世にとりて第一に捨てがたきふし」です。この世で一番捨てがたいものは何か。彼女たちが主張するのは月、文(ふみ)、夢、涙、阿弥陀仏、『法華経』、そして『源氏物語』です。これらは、一人ひとりがただ思いつくままに順に挙げたもののように見えます。しかし、じつは共通点を見出すことができます。いずれもが、時間や空間の隔たりを超えて伝達可能な“強靱なメディア”なのです。たとえば、月はいつでもどこでも空に見えます。だから、月と向かい合うと、知らない過去、現在、未来も、あるいはまだ見たこともない異国の地も遥かに思いやられるのだ、と言います。空に浮かぶ月を媒介にして、時空を超えた繋がりを感じるということでしょう。月の次に取り上げられている「文」とは、直接には手紙のことを指します。遥か遠くに離れてしまった人、あるいはすでに亡くなってしまった人の手紙を読むと、その本人が眼前にいるかのように思われます。たしかに、手紙は時空を超えるメディアです。「文」は英語のletter(s)に似て、手紙にかぎらず、広く文字表現(言葉)にかかわるものごとを意味します。たとえば、「ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」という『徒然草』の一節に見える「文」は、書物(とくに漢籍)を指します。ほとんどの場合、書物を書いた人、あるいは書物に登場する人は、読者にとって身近な存在ではありません。しかし、本を開いて読めば、その人を友とすることができる。つまり、直接にはついに逢うこともない、縁もゆかりもないはずの人を結びつける力が本にはある、ということです。なるほど、「文」は力強いメディアです。ただし、ただ本がそこにあればメディアになる、というわけではありません。どれほど強靱なメディアでも、それにアクセスする人がいなければ、その役割を果たすことなどできません。本にアクセスするとは、つまり読むことです。とはいえ、本の“海”はあまりに広い。日本では年間8万点ほどの書籍が出版されています。龍谷大学図書館でも毎年4万冊ほどの本を購入しており、総蔵書数は220万冊近くに及びます。あまりに多くの本を前にとまどい、迷ってしまっても不思議ではありません。私たちはじつに多くの本にアクセス可能です。恵まれた環境と言えます。しかし、そのことが逆に具体的な“ある本”との出会いを妨げてしまう危険もあるのです。情報は多ければ多いほどよいわけではありません。ここで、五木寛之さんが「他力」について述べた譬え話に耳を傾けてみましょう(『自力と他力』講談社、2006年、瀬田・大宮図書館所蔵)。エンジンがついていないヨットは、自力で走ることができません。帆走するには、風という他力が必要です。では、風が吹くのをぼんやり待っていればいいのか。そうではない、と五木さんは言います。「真剣に水平線の雲の気配をうかがい、いつかは必ず風が吹くと信じて、そのチャンスを逃さないようにしっかり見張っている必要があるのです。せっかく風が吹いてきても、帆をおろして居眠りしていたのでは意味がないのですから」。すばらしい本とうまく出会い、すぐれた本を豊かに館長講評風を吹かせる

元のページ  ../index.html#50

このブックを見る