40図書館長 安藤 徹無文字時代の日本列島には、狩猟採集民と農耕民(水田稲作民)とがいました。前者がいわゆる縄文人、後者がいわゆる弥生人です。私はそう覚えていました。しかし、じつはそのどちらでもない(あるいはどちらでもある)民がいたことを、つい最近になって知りました。それが「園耕民」です。園耕民は動物の狩猟や木の実の採集、キビやアワの栽培をしながら、季節に応じて回遊する生活をしたそうです(藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』講談社〔講談社現代新書〕、2015年、深草・大宮図書館所蔵)。“本との生活”は、園耕民のそれに似ているかもしれません。私たちは、本を狩猟採集(買ったり借りたり)するだけでなく、耕すことも必要です。本を耕すとは、読み解くことであり、読みほぐすことであり、読み込むことであり、読み返すことです。そして、積極的な読みのなかから“何か”を芽吹かせ、花開かせ、実らせることです。狩猟も採集も農耕も、それぞれにふさわしい季節があります。季節に応じて、手に入れられるものがちがいます。同様に、“本を読む季節”があるかもしれません。「読書の秋」というような意味での季節もあるでしょう。しかし、それだけではなく、ある本を読むのにふさわしい「人生の季節」がある、という意味においてもです。人生にあるのは「(青)春」だけではありません。「朱夏」「白秋」「玄冬」という季節もあります。そうした深まりゆく季節=人生のある瞬間に、まさにそのときにこそ出会うべき本とうまく出会うことができるとすれば、なんと幸せなことでしょう。作家の大江健三郎さんは、「読書には時期がある。本とジャストミートするためには、時を待たねばならないことがしばしばある」(『私という小説家の作り方』新潮社〔新潮文庫〕、2001年、深草図書館所蔵)と言います。では、そのようなときが訪れるまでは寝て待っていればよいのでしょうか。つづけて大江さんが、「若い時の記憶に引っかかりめいたものをきざむだけの、三振あるいはファウルを打つような読み方にもムダということはないものなのだ」と述べていることも見逃さないでおきましょう。学生のみなさんのように若いときに、いろいろな本に挑戦してみる。興味があることにかかわる本を、とりあえず手当たり次第に読んでみる。あまり関心はないけれど、友人がのめり込むように読んでいる本がどれくらいおもしろいのか、試しに手に取ってみる。ちょっと背伸びして、少し格好をつけて、難解な本に手を出してみる。学修に必要だからと、いやいやながらも調べてみる。ふとできた時間を埋めるために、図書館で偶然目にとまった本を借りてみる。読んだら、つまらないかもしれません。やはり興味を持てないかもしれません。理解できないかもしれません。しかし、それでもいい。そうした経験、そうした記憶が、じつは大きな糧になるのです。詩人の伊藤比呂美さんが、「必要なときに必要な本に運良く出会える。どんなに読み飛ばして忘れ去っても、必要なときがくれば、ことばがよみがえる。あるいは、読みたいと思った本がいつのまにか手元にある。……そんなことを何べんも経験しました」(「お天道様と米の飯と岩波文庫」(岩波文庫編集部編『読書のとびら』岩波書店〔岩波文庫〕、2011年、深草・瀬田図書館所蔵)と述べていたことも思い出されます。本と出会う。その有力なきっかけの一つとして、他の人から薦められるということがあります。今年度で第4回を迎えた「私のお薦め本コンテスト—MyFavoriteBook—」(龍谷大学図書館主催)は、まさにそ館長講評本の園耕民
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