9永末 晃規 (政策学部 政策学科 2年)風邪をひき、熱を出すと、目の奥がぼんやりと熱くなり、頭の中は膿がたまったように重くなる。この本の二つの表題作のうちの「泥の河」を読むと、まさにそんな感覚に襲われる。毎日読みたい本ではないが、時たま無性に手に取りたくなる。素晴らしく朦朧とした読後感は、忘れようとしても忘れられない。物語の舞台は昭和三十年、まだ戦争の臭いがそこら中に残る、大阪の安治川だ。主人公の信雄は、そのほとりで食堂を営む両親によって愛情深く育てられている。夏の日の食堂は陽炎に揺れ、焼かれたきんつばとかき氷の甘さが、心にまとわりつく。作者の追憶のなかの風景は、汗ばんだ少年の匂いが立ち込めている。冒頭での、登場人物のあっけない死とともに、一人の少年が現れる。喜一というその少年は、姉と母とともに、安治川に浮かぶ一艘の小船で暮らしている。「廓船」と揶揄されたその小船は、まるで大きな棺桶のようだ。ずっしりと陰鬱で、そこでは生と死すら曖昧に感じる。喜一の境遇は、その小さな身体で背負うにはあまりにも重い。戦争によるどうしようもない厳しさが、少年の純粋さ、無邪気さに暗い影を落とす。信雄と喜一は、当然のように惹かれあい、親しくなる。少年同士の心のつながりは、戦争の影など消え失せてしまったかのように錯覚させる。しかしながら、喜一や、喜一の家族の心にあるひずみが、そして彼らを取り巻くどうしようもない悲しみが、それを非情にも打ち砕く。信雄は喜一の残酷な異質性や、彼の母や姉の艶めかしい匂いに魅せられながらも、同時に少年特有の潔癖さでそれらを拒絶する。物語の結末である、二人の離別のシーンは、読者の心に突き刺さるように迫る。川を上っていく船を追いかける巨大なお化け鯉は、おそらく信雄だけに見えた白昼夢だろう。立ち止まって船と鯉を見送る信雄と同じように、ぼんやりとした熱が、最後のページからあふれ出す。もしかすると、この本は大々的に人に勧めるべき内容ではないのかもしれない。しかしこの圧巻の美しさと切なさを、是非とも誰かに感じてほしいのである。大 賞『螢川;泥の河』宮本輝 著、新潮社、1994.
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